昔話・民話
第3話 旅人の危機管理
一人の旅人が山道を歩いていると、ふと、うしろに異様な物音がする。ふり返ってみると大きな虎が追っかけてくる。 「こりゃ大変!」 と走り出した旅人は、 「あっ」 と息を呑んだ。前は絶壁だった。 「もはやこれまで!?」 と諦め […]
第5話 きこりとさとり
お釈迦さまの時代、インドの先進的な都市ヴェーサーリーに維摩という大富豪が住んでいた。彼は学識すぐれた在家信者であったが、大乗仏教の代表的な経典『維摩経』の主人公としても有名である。 ある時、光厳童子(童子とは修行者、また […]
第8話 水を掬し花を弄する
私たち人間の意識は、眼で物を見、耳で声を聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体で触れるというふうに、五官の窓をとおして物事を分別している。このはたらきを総括して「見るもの」といい、「主観」といい、また「自」などといい、その対象 […]
第11話 是れ一か是れ二か
中国は唐の時代、衡陽に張鑑という人がいた。 その一人娘倩女(せいじょ:日本流にいえば「おせいさん」とでもいうか)は、なかなかの美人で、王宙と恋仲だった。 ところが、父親は、彼女を別の男と結婚させようとした。ために倩女は […]
第14話 地底から湧出せる菩薩たち
昨年(平成7年)は乙亥、五黄土星中宮の年で、昔からこの年には震災や動乱、戦争などが起こるといわれている。思えば関東大震災(大正12年)も同じ年まわりである。 1月17日の阪神大震災では6308人(平成8年12月27日 […]
第19話 道は脚跟下に在り
禅寺の玄関に入ると、よく「照顧脚下」または「看脚下」と書いた木札が掲げてある。「脚下を照顧せよ」「脚下を看よ」と読むのだが、これは本来的には自己を究明せよ、自己を見失ってはならぬという警告だが、玄関の場合は端的にいって […]
第27話 晴れてよし 曇ってもよし
いつも三月、花のころ。女房十八、わたしゃはたち。子供三人親孝行。使って減らない金百両。死んでも命があるように。 このようになれば、まさに「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」だが「月にむら雲、花に風」で、何事も思うに […]
第35話 千手観音
昔、奈良の興福寺に実際に手が千本ある観音像があって、徳川時代、その珍しい観音様を江戸に運んでご開帳すると、大勢のお詣りがあったという。 参拝者の中に駄洒落をいう人があって、「なるほど、これは沢山手がありますなァ。千本あ […]
第37話 水鏡の美人
インドの富豪の美しい嫁さんが姑とのトラブルに悲観し、自殺を決意して林の中に入ったが、いざという時に急にこわくなった。しかし家に戻るのも具合悪く、大樹に登った。 その樹の下に澄み切った美しい池があった。そこへ一人のお手伝 […]
第39話 ケチは丸損
山寺にケチな和尚がおり、桶に飴を入れ大事にしまっていて、時折一人でこっそり舐めていた。 そして一人しかいない小僧には、「これを食えば死ぬぞ」と言っていた。しかし小僧はそのウソを見抜いていた。 ある日和尚が外出した。小僧 […]
第40話 知と行(知識と実践)
ロバが道端の草を食べようとして、右側に足を運ぶと左の方がうまそうに見え、左の路肩の草を食べようとすると右の方がよさそうに思われ、右せんか左せんか、迷いに迷って食べることができず、ついに餓死してしまったというロバの物語が […]
第41話 知識と知恵
知識は「知識を得る」というように外から学び取るもの。、知恵は「知恵を磨く」とか「知恵を出し合う」というように、持って生まれた内なるものを磨くことによって外にあらわれ出るもの。 昔、道学者のところへ一人の青年が訪れ、処 […]
第43話 嫌いな相手に救われる
昔、西洋のある国の皇太子は、ハエとクモが大嫌いだった。 ある時、隣国との戦いに敗れて逃げ回っているうち、大樹の根元に腰を下ろした途端、どっと疲れが出て睡魔に襲われ、深い眠りに陥ってしまい、敵の近づいているのも知らなかっ […]
第44話 他を利する
満員のバスに、途中から一人の女性が大きな荷物を提げて乗ったが席がない。誰も立ってくれない。運転手はしきりにバックミラーを見ていたが、たまりかねたとみえて、「奥さん、席がなくてお困りですね。僕が立ちますから、ここへお掛け […]
第49話 この紋所が眼に入らぬか
テレビ「大岡越前」を時折見ているが彼が伊勢の山田奉行所時代のエピソード。 ある、殺生禁断の場所に、夜、一人の少年が現れ、網を打って魚を捕っているという噂が流れた。捕り手が張り込んで咎めると、その少年、いきなり提灯を突 […]
第50話 明君のもと明臣あり
備前岡山の藩主、池田新太郎光政は徳川時代の明君として名高い。 この明君の家臣に津田左源太という小姓の若侍がいた。彼は宿直(とのい)といって、殿の寝室の隣で不寝番の役を勤めていた。 ある晩、気の弛みか疲れからか不覚にも […]
第51話 「修行」と「修業」
文章を書くとき、私は必ず「修行」とかいているのだが、漢字になったものをみると「修業」にあらためられていることが一度や二度ではない。 編集者が用語の慣例に従って親切に訂正してくれるのだろうが、実は有難迷惑なことである。 […]
第62話 慈悲なきに似たれども
平安中期の天台宗の高僧源信は比叡山の彗心院に住んでいたので彗心僧都といわれた。 或る日、寺の境内に一頭の鹿が迷い込んできた。 それを見た彗心僧都は、「あそこに鹿が入ってきた。早く追い出せ!」と、言葉荒々しく弟子たちを […]
第63話 木鶏に似たり
中国の古典の「荘子」に「木鶏に似たり」という有名な言葉がある。 木で造った鶏のように周囲の動きに心を動かすことなく、何事にも無心で対応することの大切なことを教える言葉である。 昔、王様のために闘鶏を調教する人がいた。 […]
第68話 平常心これ道
西郷隆盛が郷里鹿児島にいたころの話。幕臣の中でも腕に覚えのある3人が会談の結果、「今後討幕の首領となるのは西郷であろう。いまの内に倒しておかぬと幕府の一大事になろう」ということになった。 そこでその三人、当時西郷を知っ […]
第71話 己心の弥陀
極楽浄土は西方十万億土のはるか彼方に、と教える浄土門のなかにも、その極楽浄土を自らの心の中に引張り込んだ「己心の弥陀」「己心の浄土」が説かれている。 「己心の弥陀」を判り易く説示した話がある。 四万年ほど前、仙台に損翁 […]
第74話 二河白道(にがびゃくどう)
浄土門に二河白道のたとえがある。 浄土往生を願う者がに進むと水火の二河に出会う。火の河は南、水の河は北、ともに深くて底なしである。この二河の中間に細い白道があって、水火こもごも押し寄せている。また群賊悪獣がうしろから […]
第78話 ただで笠をやってどうするんですか
おとぎ話から演歌にいたるまで、出てくる仏といえば殆どがお地蔵さまで、お地蔵さまは直に庶民の仏である。 幸田文さんの話だが、母親代わりに孫の授業参観に行ったところ、国語の時間で「笠地蔵」の授業中だったそうだ。 貧しい老 […]