第4話 人間、動物、植物、みな生命
通行量の多い国道や県道などで、車にはねられた犬や猫の痛ましい姿をよく見かける。こんな時世の中で、近ごろ、中日新聞に心温まる動物愛護の話が出ていて感動した。
愛知県豊川市の国道一号線で、ニホン鹿をはねてしまった会社員は、国道に鹿が飛び出してくる予想外の出来事に一瞬びっくりしたが、すぐ警察に事故を通報する一方、獣医の派遣を依頼した。
立ち上がって生きようとする鹿を道路端に寝かせ、シーツをかけて顔などをなぜながら、
「頑張れよ」
と励ました。
しかし、獣医は来ず、約一時間の介護も空しく鹿は息を引き取った。
「助かるという10%の確率にかけた」
という会社員。
「悔しくて…」
と悲しんだ。
なぜそこまでしたのか。
「人間だから処置する。動物だからしない、というのは動物への差別、自分自身、放置するのが許せなかった」と。
この記事を読みながら、私は生きているものへの尊厳、命の尊さに対するひたむきな会社員の姿の中に仏様を感知した。
脳死をめぐる論議のなかで、脳の働きに生命を生命たらしめる唯一の価値を求めるとき、脳に欠陥のある人は、ねうちの低い生命だということになり、考えるということのない動物や、脳を持たない植物は生命ではないことになってしまう。
存在するすべてのものに生命を感知し、それを拝んでいくところに仏教がある。