第18話 人間は人間を差別してはいけない
人間が人間を差別していじめるということほど、いけないことはない。
よくわかっていながら、なかなか消えさらない。
仏教は徹底して人間平等を教えている。
法華経の二十番目の常不軽品に出てくる常不軽菩薩のありかたが、人間のありかたの模範であると説かれている。
常不軽菩薩は「但行禮拜」(たんぎょうらいはい)といって、人間を拜み、天地を拜み、草木を拜み、山や川を拜んだ。
あるものすべて、出会うものすべてをひたすらに拜んだ。
人を、天地を、草木を、山を、川を拜む人は、実はまた拜まれる人になっているのである。
このような宗教の立場にまで深まらないことには、人間の奥深くにひそむ差別思想や感情をぬぐい去ることはできない。
失明の人学者塙保己一(江戸中期の国学者)の達話に、こんなのがある。
あるとき、塙保己一が弟子達に講義中、ローソクの灯が風で消えた。
かまわず講義はすすめられた。
弟子達は、
「灯が消えました、ご中止ください」
と言った。
そのとき塙保己一は、
「さてさて、目あきは不自由なものだのう」
といった。
ローソクが消えたとたん、目あきは慌てて当惑するが、盲目は少しも慌てる必要がない。
だから盲目は目あきより勝れているではないかという話である。
実はここには「光を失った人」の根本的不自由や悲しみが忘れられているばかりか、もともと心の底に目あきこそ完全であるというような目あきの身勝手な解釈が先行しているのである。
こういう物の考え方は先の常不軽菩薩のような徹底してすべてを拜むという宗教行によってのみ、ぬぐい去られてゆくのである。