第58話 脳死は人間の死ではない
いま、国会へ臓器移植法案が提出されているが、この素案で脳死状態の人を「死体」とみていることに対しては、仏教者として反対である。
ひとたび法律が脳死状態の人を「死体」と規定してしまえば、ただでさえ「いのち」をモノと考えがちな医療の現場で、ことに末期患者のいのちが粗末に扱われるであろうことは明らである。
どうせ灰になる臓器が他人の役に立つことは素晴らしいじゃないかと言う人もいる。
だが,突然の事故で脳死し、暖かで柔らかな肌のままベッドに横たわっている我が子を前にして、どうせ灰になるなどと思う親がいるだろうか。
事故などで突然脳死状態になった人の新鮮な臓器ほど役に立つわけだが、突然ふりかかった悲劇に動転してしまっている家族へ、臓器提供を申し込むなど通常の感覚でできることではない。
どうせ灰になるのだから役立てるという考え方は人間の身体を資源、つまりモノと考える以外の何ものでもない。
臓器提供とは、効率化を目指す医療技術が要請するところの資源再生、人体のリサイクル運動なのだという本質をキチッと国民は把握すべきだと、評論家・中島みち女史は断言しているが、確かにそんな気配が感じられる昨今である。
脳死は人間の死ではない。
何よりも、人間は単に生きものとして死ぬわけではなく、社会的存在である人間の死には、広く文化、法律、倫理などさまざまな問題が絡んでいるのである。
どうせ死ねば灰だなどの感覚はますます世の人心を荒廃させるのみであろう。
※この法話は平成6年に書かれたものです。