第40話 悟りの岸に渡るには……
どうも、仏教では「悟り」の定義ってこれというのは無いんじゃないかと思うんです。
曰く「実の如く自分の心を知ること」「無我」「空」「絶対の心の安らぎの境地」とかね、いろいろです。その世界は言葉では言い得ないので「言説不可得(ごんぜつふかとく)」なんて言われたりもします。
でも、その悟りの世界は、私たちの日常の心の状態とは違うので、まるで川の向こう岸みたいなので、彼岸って言います。
ちなみに、彼岸のことを昔のインドの言葉でパーラム、渡る、至ることをイターって言います。“パーラム”へ“イター”するので、パーラムイター。ムとイが変化して、パーラミター。これがそのまま音写されて波羅蜜多(はらみった)になります。
そのために必要な偉大な(マハー⇒摩訶)智恵(これはパンニャー⇒般若)についてのお経が、マハー・パンニャー・パーラミターで、摩訶般若波羅蜜多なんです。
仏教は宗派を問わず、彼岸に渡ることを目的にしている筈です。その方法が違うんです。
弘法大師は、遅速の問題って言ってます。帆掛け舟もあれば、手漕ぎボートもある、大型船もあれば、ジェットボートもあるって。
禅宗のように、自分を無にしていく方法もあれば、真言宗みたいに自分を宇宙大まで拡大していく方法もある……その人によって、向き不向きがある。でも、悟りの岸に渡ってしまえば乗り物は必要ないですよね。
次回は出流さんからの「言霊」でいきます。火とfireの語源が一緒だったなんて……