第57話 たがために経は読む?

挿し絵 どう聞いても意味のわからないお坊さんのお経(へたをすると読んでいる方にも分からなかったりして……)だもの、いったい誰のために読んでるの?と言いたくなりますよね。
だから、森さんや白雪さんからのリクエストの添え書きにあったように、「亡き人のため?生きている人のため?」ということになるんだろうと思います。

 じつは、お経を読む相手には、皆さんが考えもおよばないであろう、もう一人の対象者がいるんです。それは、仏さま!
お坊さんが読むお経は、多くの場合、仏さま(死者ではありません)をもてなす(供養する)のに読まれるんです。そうすると仏さまはそれを楽しむので
"法楽のために読誦したてまつる般若心経……"
なんて言い方をします。皆さんが遭遇する読経の多く(法事や法要で唱えられるお経)は、この仏さまに楽しんでもらうためのお経です。お坊さんに仏さまを供養してもらう――それを「今回は誰々のために特にお願いする」のが法事です。
 他にも、お葬式なんかでは、亡き人が仏さまの弟子になるために、チベット死者の書みたいに、その人に聞かせるつもりで読む場合もあります。つまりこの場合は亡き人のため。
もちろん、お経には
"世の中の現象の根底に流れている諸行無常"
について説かれたものや"全てのものはそのままでとても清浄なのだ"といった宇宙観を説いたものなどがあります。その意味では、生きている私たちの為に説かれた教えです。
 でも、漢文をそのまま読まれても聞いている人には内容はチンプンカンプンですよね。だから書き下しにしたり、日本語訳して読めばいいじゃないかと思われるかもしれません。そういうお経(「父母恩重経」や「仏遺教経」など、ネットで検索できますよ)もありますが、どうも格調が低くなってしまうお経が多いんです。
般若心経の一部の「色即是空、空即是色」は、"色"や"空"の概念を勉強してればかなりダイレクトで右脳に届きます。しかし、「色は即ち、是れ空・空は即ち、是れ色なり」になるとちょっと混線。さらに「形あるものは、すなわち、もろもろの条件によって全てが変化し続ける法則性そのままであり……」なんて言われ続けたら頭がガンガンしてきます。

 今回のリクエストで分かったんですが、もうちょっとお坊さんが読経の方向性について皆さんに言わないと勿体ないですね。
おっと、前回の大事な質問に答えてなかった……
「供養は仏(この場合は亡き人も入ります)のためのみ、あらず」
というのは父の弁。私もそう思います。

 次回は年末大掃除ご慰労記念として「聞け!物どもの声」。散らかった品々の叫びが聞こえるようになる物語です。