第5話 きこりとさとり
お釈迦さまの時代、インドの先進的な都市ヴェーサーリーに維摩という大富豪が住んでいた。彼は学識すぐれた在家信者であったが、大乗仏教の代表的な経典『維摩経』の主人公としても有名である。
ある時、光厳童子(童子とは修行者、または菩薩の意)が修行に適した静寂の地に道場を求めて、喧騒の街を出ようとして城門にきたら、そこで、折から城門に入ろうとしている維摩居士に出会った。
「どちらから来られましたか?」
と光厳童子が訊ねると、
「ウン、道場からだよ」
と、維摩居士が答えた。
「道場ですって?それはどこにあるんですか?」
“道場”と聞いて、光厳童子は弾んで訊ねた。
「直心是れ道場!」
これが、その返答だった。
直心とは、純一無雑で素直な心のことであり、直心なれば、喧騒の街頭もまた静寂そのもの道場なのである。
一人のきこりが斧で木を伐ろうと、山深く入ったら、さとりという珍しい動物が姿をあらわした。きこりがこれを生け捕りにしようと思うと、さとりは直ちにその心を読み取り、
「俺を生け捕りにしょうというのかネ」
という。
きこりがびっくりすると、
「俺に心を読まれて、びっくりするとはお粗末な話だ」
という。
ますます驚いたきこりは、
「ええ、小癪な奴。斧で一撃のもとに殺してやろう」
と考えた。
するとさとりは、
「こんどは俺を殺そうというのか。いやー、おっかない」
と、からかうようにいう。
「こりゃーかなわん。こんな不気味な動物を相手にしておったんでは、めしの食いあげだ。こんなものにかかわらないで、本来の仕事を続けよう」
と、きこりは考えた。
するとさとりは、
「俺をあきらめたのか。かわいそうに!」
といった。
きこりはこの不気味な動物を諦らむべく、再び元気をだして木を伐ることに没頭し、力いっぱい斧を木の根元に打ちおろした。額からは玉なす汗が流れ、きこりは全く無心になった。
すると、偶然、全く偶然に、斧の頭が柄から抜けて飛び、さとりにあたり、おかげでさとりを生け捕りにすることができたという。
きこりの心を読み取り、きこりをからかった動物も、無心の心までは読み取ることができなかった。
有名になろうとあせると、世間では「売名家」と、その心の裡を読み取ってしまう。自分だけ成績を挙げようとがむしゃらに努力すると、同僚から「点取虫」といって嫌われる。大儲けしょうともがくと、「がめつい奴」と軽蔑され、これではさとりという非凡な動物を捕らえることはできない。
売名や点取りや欲得を思わず、孜々として現前の仕事に没入する直心によってのみ、現前にあって人をほんろうする珍しい動物「さとり」を、結果として捕らえることができる。
たとい山中深く入ったにしても、分別妄想がはたらく限り、静寂の境とはなり得ない。直心こそは静寂な修行道場そのものであり、また非凡なさとりの境地でもある。
無罣礙:「無罣礙」(むけいげ)、これは「般若心経」にでてくる言葉で、罣とは引っかけるの意。礙はさまたげる、さわり、障害の意。したがって「無罣礙」とは分別や妄想によって心が束縛されないこと。そこに「直心」が現成する。