第9話 放下せよ
禅というと、まず禅問答を思い浮かべる人が少なくないかと思う。トンチンカンなやりとりを、
「禅問答みたい」
などというが、禅問答には確かにそういう一面がある。
しかし、それは表面上のことであって、問答の内面に立ち入って深く考察してみると、言葉のやりとりがトンチンカンなのとは逆に、問答を通して実に適切な指導がおこなわれているのである。
ではどうして、そういう奇妙な現象があらわれるのかというと、これは問答をかける人と答える人の境涯、悟りの境地のレベルが違うからである。次元の低い者には高次元の者の心の内はわからないので、トンチンカンなことをいうのだが、上から下はよく見えるので、ちぐはぐな言葉を聞いても適切な指導ができるのである。
九世紀の頃、中国は唐の時代に趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)という偉い禅僧がおった。この趙州のところへある日厳陽(ごんよう)という和尚がやって来て、
「一物不将来の如何?」
(私は何も持って来ないんですが、こんな時どうすればよいのですか)
と、問答一番に及んだ。すると趙州禅師言下に、
「放下着!」(捨ててしまえ!)
と答えた。これは表面的に見る限り答えになっていない。そこで厳陽は“何をとぼけてるか”といわんばかりに、
「一物不将来、箇の何をか放下せん?」
(何も持って来てないというのに、いったい何を捨てろといわしゃるんですか)
と、斬り返した。趙州、落ち着き払って答えていわく、
「恁麼(いんも)ならば担取し去れ!」
(そんなら、さっさと持って帰れ!)
と。
これはまた前にも増して奇妙な答えである。
これは禅門答の典型的な一例で、簡単に解説してみると、厳陽の「一物不将来の時如何?」。これは、私はもう悟りを開いて無我、無心に徹し、無一物になり切っている。こういう私はどう修行すればよいのか、という質問なのである。しかし、趙州からみると、その一物不将来がどうも鼻にかかっている。
私どもは真に健康なときに健康を忘れているものである。同様に本当に無我に徹し、無一物になり切っているなら、そのことを意識するものではない。それを偉そうに「一物不将来の時如何?」などというので、「放下着!」、お前の鼻さきにぶら下がっているその思いあがりを捨てろ、と趙州は親切に諭すのだが、厳陽には通じない。
まさか心の底まで見抜かれているとは思ってもいないので、「一物不将来、箇の何を放下せん」と喰ってかかるのである。ここに一物不将来の増上慢(ぞうじょうまん)がいよいよはっきりしてくるのである。
だから趙州いわく「恁麼ならば担取し去れ」、お前の鼻さきにぶら下がってるもの、そんな大事なものなら、サッサと持ち帰ったらよかろう、ということになるのである。
諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず、しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく(『正法眼蔵・現成公案』)
仏が真に仏であるときは、俺は仏だなどと思うものではない。しかし、ほんとうの仏は、自分を仏だと思わなくとも仏の姿を一挙手一投足のうえにあらわしているものである、と。
「一物不将来の時如何?」
と、鼻をピクピクさせる人は私たちの周囲によく見かける。この時、
「放下着!」
と言ってやりたいものだし、またそう言える力量を持ちたいものである。
放下着(ほうげじゃく):この句は茶掛けによく見られる。ある人がこの「放下着」の一軸をかけて茶事をした。客の一人が、「下着を放つか。裸にならんといかんというんですか」と言ったという笑い話がある。着は命令形の助辞で「放下せよ」という意味である。