第15話 立処皆真なり
情報化社会といわれて年すでに久しく、私たちは必要度をはるかに超えた大量の情報の消費を強いられている。あわせて社会の高速化現象が進み、周囲は実に目まぐるしく移り変わってゆく。
ところが、人間は知性的な存在であるだけに、過剰な情報の渦のなかに放りこまれ、目まぐるしい周囲の動きにもまれると、あたかも大海の荒波にほんろうされる捨て小舟のように、あれを思い、これを考え、情報の選択と判断に迷い、行動の自由を失い、自分の無力さ、不甲斐なさを見せつけられる場合が少なくなく、その結果、環境や社会の力を過大視し、逆に自分の力を過小に評価するようになる。
ここから、自分をもっと充実した、どっしりと力のあるものとし、客観世界の比重を少しでも軽くしてゆこうとする願いが生まれてくるのは当然のことであり、“心の時代”といわれ、宗教書がよく読まれるようになったのもその一つのあらわれであろう。なかんずく、人間に自信を与えてくれるもの、それが禅にあるのではないかと、今日、禅に対する関心も高まっている。
臨済義玄禅師の言葉に、
「随処に主となれば、立処みな真なり」
というのがある。
これは、周囲の動きや情報などにひきずりまわされないで、逆にそれらを意のままに駆使してゆく主体性があれば、真に生き甲斐のある人生を生き抜くことができるという意味である。
瑞巖の師彦和尚は毎日自分に向って、
「主人公」
と呼びかけ、
「ハイ」
と自ら答え、
「よし、よし、眼を醒ましているか」
「ハイ」
「いつ、どんな時でも人に騙されるでないぞ」
「ハイ」
と自問自答していたというが、私どもにとって真に大切なのは本来の自己「主人公」なのだが、それを見失っているのが私どもの現実の姿である。
「随処に主となる」とは、主人公が眼をしっかり見開いて他に対する毅然としたすがた、はたらきをいうのである。
趙州従諗禅師は、
「諸人は十二時に使われるが、わたしは十二時を使得している」
といっている。
世間の人々は、時間をはじめ周囲の動きにひきずりまわされているが、私はそれらを意のままに使いこなしているという。諸人はなぜ十二時(今日でいえば二十四時間)に使われるのか。それは相手、対象があるからである。しかし、相手と一体になれば、使うも使われるもない。その時その場のことになりきる。そのものそれと一つになって、余念雑念をまじえない。それが「随処に主となる」ことであり、同時にまた「立処みな真なり」全一の世界に悠々自適できる風光である。
ある人が盤珪禅師に、
「私も歳をとりましたのでおうかがいしますが、死ぬるにはどのような覚悟をしたらいいでしょうか」
とたずねると、盤珪禅師は、
「覚悟はいらぬ。死ぬときは死ねばよし」
答えたという。
なりきり、徹しきっておれば、ああだこうだと相対分別する妄想がなくなるから、立処みな真実の自由世界である。
随處作主(ずいしょにしゅとなる):「臨済録」にある語。いかなる環境にあっても主体性を失わず、他の束縛を受けない自由さ。この主体性が確立されれば、至る処みな真実の世界となる。(立處皆真なり)