第16話 お茶をどうぞ
「喫茶去」(きっさこ)という言葉があります。
「去」は助字で別に意味はないので、「お茶を召しあがれ」という意味の言葉で、茶掛や色紙などによく書かれる有名な言葉ですが、実は「趙州喫茶去」といって、禅門ではやかましい公案(参禅者に示して坐禅工夫させる課題)になっております。
趙州従諗という人は、今から千百年も前、中国は唐の時代の禅の巨匠ですが、この趙州和尚、訪ねて来た坊さんに、
「曽つて此間に到るや」(前にここに来たことがありますか?)
と、たずね、坊さんが、
「曽つて到る」(ハイ、ございます)
と答えると、趙州和尚、
「喫茶去」(そうか、じゃお茶を一服どうぞ!)
と言いました。
次にまた一人の坊さんがやって来ました。
趙州和尚、前と同じように、
「曽つて此間に到るや」
と、たずね、その坊さんが、
「曽つて到らず」(いいえ、はじめて参りました)
と答えると、趙州和尚、前と全く同じように、
「喫茶去」
と言いました。
前に来たことのある者に対しても、はじめて来た者に対しても、ひとしく「喫茶去」と言ったことに不審を抱いた院主(寺院の事務を掌る役僧)が、たずねました。
「和尚、尋常、僧に問う。曽つて到ると到らざると、総に喫茶去と、意旨如何」
(方丈さまに、ここへ来たことがあるといっても、来たことがないといっても、一様に、お茶をおあがり、といわれますが、それはどういうわけですか)
と。
すると趙州和尚、その意味には何も答えず、
「院主さん!」
と呼びました。院主がつられて、
「ハイ!」
と返事すると、趙州和尚、言下に言いました。
「喫茶去!」
このように、趙州和尚は、三人に対して一様に「喫茶去」と言いましたが、これはいったいどういうことなのでしょう。
「此間」とはここのことであり、趙州和尚がどっかと坐っているところ、つまり悟りの境地のことであり、それは凡聖、賢愚を超越した境涯のことであります。趙州和尚はその境涯(此間)に立って、悟った者であろうとまだ悟らない未熟な相手であろうと、また日頃親しい院主であろうと、誰に対しても一視同仁、みな一様に「喫茶去」と言っているのであります。
茶席では、亭主が茶を点てて客にすすめるとき、貴賎貧富、利害得失、老若男女等は全く問題外で、誰に対してもひとしく「喫茶去」であるべきであります。
さて、私どもの日常はどうでありましょう。相手によっては、居丈高の態度に出たり、そうかと思うと、土下座せんばかりの卑屈な態度をとってはいないでしょうか。
喫茶去!
喫茶去(きっさこ):親疎を差別せず、すべての人を平等に見て接することの大事なことを教える。臨済の「且坐喫茶」(且らく座ってお茶をどうぞ)とともに茶人に親しい言葉。