第17話 理と事
「松に古今の色なく、竹に上下の節あり」
という句がある。
時の流れは、松の緑のように永遠に変わらないのだが、その変わらない中にも、竹のように上下の節がある。
正月も、その一つの節目である。
新年を迎えて、知人に会えば、
「明けましておめでとう」
と挨拶する。そのとき、
「昨日が今日になっただけ、いつもと変らんじゃねぇか。何が明けましてめでてえんだ」
という人があるとしたら、その人は、松に古今の色の無いことは知っておっても、竹に上下の節のあることを知らぬ人であろう。
逆に、“正月だ” “年のはじめだ”といって浮かれてばかりいる人は、竹に上下の節のあることは知っておっても、松に古今の色の無いことを忘れている人であろう。
物事をみるには、変らないものと、変るものとの二つの視点が必要である。
「理事」とか「理事者」という言葉は、ごく身近によく使われる言葉だが、「理事」はもともと仏教用語で、理とは根本の道理、事とは表にあらわれた現象のことである。したがって、会社の理事者とか農協の理事というのは、会社なり農協なりの運営の大綱を把握するとともに、現実の具体的な問題の処理にあたる人のことである。
草木にたとえれば、理とは土に埋もれて見えない根であり、事とは地上にあらわれた幹であり、枝葉のことである。切花はどんなに美しくとも根がないのでその生命は短かく、あっとう間に枯れてしまう。
同じように、いかに現実の具体的問題に通暁し、またこれが処理の術に長じていても、大局を把握していなかったら、やがては行き詰まってしまうであろうことは免れがたい運命である。
にもかかわらず、事は理にくらべると、直接的で身近であり、それだけに取り組みやすく、かつまた現実の生活に結びついているので、人はともすると理を忘れて事をのみ走り、根無し草の一生を送りかねない。
だから一休さんは、しゃれこうべをかかげ、
門松や 冥途の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし
といって、理を忘れ、ただわけもなく事に浮かれている人々の心に冷水を浴びせかけたのである。
正月を、いや正月だけでなく、己が職分、そして人生を意義あらしめるには、松に古今の色がないという理の面と、竹に上下の節があるという事の面と、両面に心を配らなくてはならないのである。
一年の計は殻を植ゆるにあり
十年の計っは樹を植ゆるにあり
百年の計は徳を植ゆるにあり
人のもっとも植ゆべきは徳なり
(藤堂周信)
食料生産には、春に何を植え、秋に何を収穫するか、年間の段取りが必要であり、植樹には「桃栗三年、柿八年」というように、十年単位の物差しという長短の節が必要であり、人の一生には百年の大計が必要であり、人生にとって、もっとも大切なことは、古今無色の徳を積むことである。
松無古今色 竹有上下節:
(松に古今の色なく 竹に上下の節あり)
- 「松樹千年の翠」というように、松は四季を通事、年々歳々常に青々としてその色を変えない。竹もまたいつも青々としているが、これには上下の節がある。
松と竹、無と有、古今と上下を対比させた名句である。