第25話 神通
科学万能の今日、一方ではオカルト・ブーム。まことにおかしな組み合わせである。
さて、禅では「正法に不思議なし」といって摩訶不思議なことを排する。道元禅師の『正法眼蔵』に「神通の巻」があり、冒頭に
「神通とは一般にいう神変不可思議なことではなく、日常生活における行動の無礙自在のすがた、働きをいうのだ」
といった意味のことが述べてある。そしてそのことをわかりやすく説明するために、次のような話を載せている。
昔、中国は唐の時代、潙山霊祐(いざん れいゆう)という偉い禅僧がおった。この潙山和尚がある日、横になって昼寝をしていると、弟子の仰山和尚がやって来た。潙山は寝返りをうって壁の方を向いた。仰山は、
「私は弟子です。そのままにどうぞ」
と言って部屋を出てゆこうとした。
潙山はむっくりと起き上がりながら、
「仰山!」
と呼びとめた。仰山が「ハイ」と返事して向き直ると、潙山は、
「わしはいま夢を見ていたんじゃが、どんな夢か当ててみよ」
と言った。仰山が「ハイ」と返事して部屋を出てゆき、洗面器に冷たい水をみたして持って来て、一本の手拭きを添えて置き、一礼して立ち去った。
潙山は洗面し、気持ちよさそうに自席についた。そこへ今度はいま一人の弟子の香厳がやって来た。潙山は香厳に、
「いま、仰山と夢占いをしていたところじゃが、どうだ、お前もいっしょにやらんか」
と言った。
すると香厳、これまた部屋を出ていったかと思うと、茶をたてて来て潙山に差し出した。潙山はうまそうに茶を一服すすり、
「二人に神通の智慧は、智慧第一の舎利弗、神通第一の目連よりも優れていると」
と、ほめた。
道元禅師はこの話を述べたあと、仏道において、神通とはいかなるものかを知ろうとするならば、潙山和尚のこの言行を参学すべきであると結んでいる。
さて、先日、ある地方を旅行していたときのこと、品のいい老夫婦が私の前の席にすわっていた。おじいちゃんは座席の背凭れをたおして、気持ちよさそうに眠っていたが、やがて目を覚まし、隣のおばあちゃんの膝の上に手を載せた。するとおばあちゃん、ハンドバックからティッシュ・ペーパーを取り出して、膝の上のおじいちゃんの手に渡す。おじいちゃんは鼻をかんで、その紙を持った手を再びおばあちゃんの膝の上に載せる。おばあちゃんはそれを受け取り、屑物袋に入れた。
この間二人はともに無言だったが、水の流れるがごとく、約束事ででもあるかのようにスムーズだった。
達磨大師は「受とは伝なり、伝とは覚なり…」と教えている。電波は空中に充満しているが、相手の電波を受信するには、相手と波長を合わせないと、どんなに優秀な受信機でも、電波をキャッチすることはできない。心の電波が伝わるということは、相手と波長を合わせて同調すること、つまり相手の心を覚ることである。相手と同調し、その心を覚れば言葉はなくとも以心伝心するのである。
話し合いだの、対話だの、強調されているが、ヨリ大事なのは以心伝心であり、神通である。
以心伝心:
文字や言語によらず心から心に伝法の義を伝える意。
お釈迦様が霊鷲山で説法の際、大勢の前で華を目の前でちょっとひねっただけだった。ただ、迦葉尊者のみぞの意を悟って微笑した。「拈華微笑(ねんげみしょう)」という。この故事以来、前門歴代の祖師は言葉や文字によらず法を伝えて来た。