第48話 「こだわる」に一言
このごろ「こだわる」という言葉がよく使われる。
そしてそれは、たとえば「ビールは銘柄にこだわる」とか、「こだわりの逸品」などといったように、よい意味に使われている。
しかしこの言葉は本来、気にしなくてもいいようなことを気にすることで、従来あまりいい意味に使われてこなかった。
試しに『広辞苑』をみると、
1.さわる。さしさわる。さまたげとなる。
2.気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる。拘泥する。
3.なんくせをつける。
などとある。
自動車学校に通いはじめの頃、それぞれ異なる両手両足の動作がスムーズに動かないのは、一つ一つの動作にこだわるからである。
それが練習の成果によって何等意を用いずして自由自在に動くようになる。
意識のこだわりがとれて意識が動作と一如するからである。
こだわりがあったんでは、クルマはスムーズに動かない。
「向こうへも右へも左へも、四方八方へ心は動きたきように動きながら卒度も止まらぬを不動智と申し候」
これは澤庵禅師の『不動智神妙録』の中にある言葉で、何者にもとらわれない、こだわらないのが不動智であり、禅のこころである。
したがって私ども禅に関係するものにとっては、今日の善意に粉飾された「こだわり」の使用法にはいささか抵抗を感じないでもないが、それが嵩じては角を矯めて牛を殺す愚を演じかねないので従来の用法と異ることを指摘してペンをおくことにする。
角を矯(た)めて牛を殺す:少しの欠点を直そうとして、その手段が度を過ぎ、かえって物事全体を駄目にしてしまうこと。