第53話 独座観念
井伊直弼の「茶の湯一会集」に有名な「一期一会」の語があるが、この書の末尾に近いところに「独座観念」の一文がある。これまた素晴らしい内容なので、分かりやすく書くと次のようになろう。
茶席終わって主客共々に名残り尽きない思いをいだき、別れの挨拶を済ませて客が帰路についたならば、客の姿が見えなくなるまで見送りすることが肝要である。
客がかえったからとて早々に音を立てて戸・障子を閉めるのはもっての外で、これではせっかくの饗応も台無しになってしまう。
客の帰る路がみえなくとも、取り片付けはいそいではならない。
心静かに茶席に戻り、炉の前に独座して、まだまだお話もあったろうに、今ごろはどの辺まで歩みを進められたか、今回この一期一会は二度と再び帰るものでないこと等と思いめぐらし、または独りでお茶を立てて一服したりする。
これが一会極意のきまりである。この時は寂漠森閑としてうち語らうものとしては釜一口だけで、ほかに何物とてない。
これはまことに自ら悟らなくては至りえない境地である。
私は檀家葬儀に臨む際、この「独座観念」に心を反すうして心身を整えたものである。
死別は人生究極の一期一会、一期一別であり、永遠の別離であり、肉親縁者にとっては悲嘆の極みである。したがって葬儀を執り行う者は飽くまでも慎み深くあらねばならず、それには「独座観念」に教えられるところが大であった。