第54話 正師を求めること
修行にとって最も大事なことは、正しい良き指導者を得る事である。
道元禅師は「学道用心集」に「正師を求むべき事」という一章を起こして、悪い指導者に惑わされると取り返しがつかなくなる。正師を得なければ学ばないほうが良いなどと教えているが、ではどう見分けるか。
道元禅師の言葉に
「諸仏のまさしく諸仏なるときは自己は諸仏なりと覚知することをもちいず、しかあれども諸仏なり、仏を証しもてゆく」
とあるが、仏が本当に仏であるときは、自分は仏だなどと思うものではない。思わないのだから口に出したりなどするわけがない。しかし本当の仏なら一挙手一投足が仏であることを証明しているものだというのである。
この頃、釈迦の再来だとか、キリストの再来だなどと自ら称している教祖がいるが、こういうのは自家免許の指導者で、その人の一挙手一投足をみれば本ものか偽ものかはすぐ分かることである。
伝教大師の言葉に
「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」
とある。自分のことを勘定にいれないという宮沢賢治の詩のように、他を利すること、利他に徹することこそが大切なのであって、この言葉は天台宗の学生(がくしょう)、つまり指導者を養成するための教育規程として書かれた本に出てくるものである。
従って、これとは逆に、他を忘れて己を利するようなものは、宗教とは全く無縁の存在でしかないのである。