第63話 木鶏に似たり
中国の古典の「荘子」に「木鶏に似たり」という有名な言葉がある。
木で造った鶏のように周囲の動きに心を動かすことなく、何事にも無心で対応することの大切なことを教える言葉である。
昔、王様のために闘鶏を調教する人がいた。
闘鶏の訓練をしはじめて十日後、王様がこの男に様子を訊ねると
「相手の鶏を見るとまだ虚勢をはります。今少し訓練が必要です」
という。
さらに十日経って王様が再び訊ねると、
「まだ相手の動きに心を動かすところがあります」
という。
こうして十日後王様が三たび訊ねると、この男は
「こんどは大丈夫です」
と答えた。
その時の闘鶏の様子はどうかというと、ちょうど木鶏のようだったというのである。
なにものにも動じないこの木鶏のような鶏を見ては、どんな相手もこれと闘う気力を失って逃げ出してしまったというのである。
闘うためには闘争心が強く、体力気力が充実し、相手を圧倒することが大切で、調教師はそのような鶏にするために調教するのであろうが、この男は、それではまだ不十分だというのである。
相手を威嚇したり虚勢をはったりするうちはまだ本物ではない。
人間も未熟なものほど虚勢を張り、強がりをいうものだが、20年30年修練を積み上げるとてらいが無くなり、自然体になる。そこが大切だと教えるのが「木鶏に似たり」である。