第64話 先祖供養
この間檀家の人に先祖供養の話をしたところ、
「先祖といってもせいぜい祖父母ぐらいまでなら実感も湧くが、それから先は顔も見たこともなければ何の思い出もないので供養の気持ちも湧きません」
という。
ここに現代人の祖先に対する考えの一端を垣間見ることができるような気がする。
なんと生命のスケールが短くなったものだろう。
私たちの祖先は襲名といって先代の名跡を継いだもので、太郎兵エは代々太郎兵エで、200年300年とその名が続いたものである。それだけに祖先の生命を尊んだのである。
私たちは計り知れない過去から現在を経て、限りない未来へと長く力強い生命の流れの中で生きているのである。 いや、生かされているのである。
目に見えない遠い過去の先祖の願いが私たちの身体の血の一滴一滴に宿っているのである。
だからこの生命は粗末にしてはならないし、またあとに続く子孫のためにも私たちは立派に生き抜かなくてはならないのである。
仏教の教祖は釈尊であるが、釈尊は自分を教主となさらず、無限の過去からの仏のみ教主に随ったまでだとして数多くの過去仏を挙げておられる。
禅宗の寺々で毎朝、その過去仏の代表として過去七仏、そして釈尊以来自分の師匠まで話を伝えてこられた数多くの祖師様方のお名前を、またその寺の歴代住職のお名前を唱えて報恩の誠を捧げているのである。
先祖の戒名を唱えて供養したいものである。