第73話 敬虔の念
今日の日本人のものの考え方はあまりにも現実的・即物的で、奥床しい人格の中心をなす最も尊い敬虔の念を失っているが、敬うべきものを敬わない敬虔の気持ちのない人間ぐらいつまらぬものはない。
なぜなら人格の尊厳を自覚しないからである。
“みのるほど頭のさがる稲穂かな”
で、内に充実すればするほど外に謙虚な態度となってあらわれてくるのである。
かの引力の法則を発見したニュートンは
「自分は海辺で貝殻を拾っている幼児のようなものだ。真理の大海のほとりでわずか2つ3つ珍しい貝殻を拾ったにすぎない。その眼の前には底知れない真理の大海が永遠の神秘をたたえて横たわっている」
と言っているが、このような謙虚な気持ちがあればこそニュートンはあのような偉大な科学者になり得たのである。
永遠の神秘をたたえるのは真理の大海だけではない。善の大海も、美の大海も、そして聖なる大海も、底知れない永遠の神秘をたたえて私どもの眼前に展開しているのである。
ニュートンが2つ3つ珍しい貝殻しか拾わなかったとしたら、普通一般の人は、拾ったとしても珍しくもない貝殻に過ぎないのである。
ところがこういう凡人に限って、口はばったいことを言うのである。
しかしそれは、結局はその人の無知、無自覚を示す以外の何物でもないのであって、真に目覚めた人は自分の無力さをよく知っているから決して大言壮語したいばかりか、広大な宇宙の前に心から頭を下げるのである。