第91話 南無あぶ陀仏
今から二百年ほど前、風外本高という風変りな坊さんがいた。
この和尚の絵がまた素晴らしく蛸風外といって世に珍重されている。
大阪、円通院に住持していた頃の話。
この寺は破れ放題に破れた荒れ寺だったが、風外は一向頓着もなく坐禅と揮毫に余念がなかった。
そこへ、大阪屈指の豪商川勝太兵エがやってきた。
彼は大きな悩みを抱えて進退窮し、風外に指導を仰ごうと思ってきたのだった。
彼は自分の苦しい現況をるる述べるのだが、和尚は真面目に聞いてくれない。
というのは、和尚は先刻からあらぬ方向を見つめている。
一匹の虻が障子にぶつかっては落ち、また飛び上がっては障子にぶつかって落ちる。
それをジーと見つめている。たまりかねた太兵エ、
「方丈様はよほど虻がお好きと見えますなァ」
というと
「おお、これは失礼」
と言い、
「太兵エどの、よくごらんなされ。この破れ寺、どこからでも外に出られるのに、あの虻、自分の出る処はここしかないとばかりに障子にぶつかっては落ち、飛んではまたぶつかる。
このままだとあの虻、死んでしまう。しかし太兵エどの、これと同じことをやっている人間も多いでのう・・・」
この言葉を聞いて太兵エ、グァーンと頭を殴られた思いだった。
「ああ、そうだった。わしはこの虻と同じだったんだ」
と風外和尚の教えを身にしみて感じ取り、厚く礼を述べると、
「お礼はあの虻に言いなされ。これが本当の南無あぶ陀仏だよ」と。