第45話 「安楽死」を是認するのかII
もとより「安楽死」など無いという立場で発言をしている者として、死の瞬間に安楽は有るかも無いかも知れないが、死に至る過程は「生」であって、生きがいに強烈な痛みであったり、苦しみであっても、生きるための死との苛烈な戦いが「生」そのものであって、看取る者にとって「見るに忍びない」「早く楽にさせたい」という個人的判断で、積極的に命を断つことは、絶対に是認できない。
ましてや、その積極的な行為を医師が執行するとしたら、明らかに治療の美名に隠された、行き過ぎた行為であると言える。
先述のY医師の父親は、確かに終末期で衰弱した容体でも「もんどり打って、手で胸をかきむしって」いたほどの状態である。
今、死を迎えつつある瞬間だとは紙面の表現では感じられない。
しかも、「末期がん患者に初めて使う量としては、危険な量」を注射し、「3分、4分みけんのしわが消え」「脈が止まった。10分後の事だった。」と記述していることから、明らかに死を意識して、死なせるために「モルヒネ2アンプル」を父に注射したのだ。
果たして、Y医師には正しくモルヒネを扱い、疼痛を緩和する技術があったのだろうかの疑問も沸く。何故いきなり致死量なのか?
医師は治療を放棄し、積極的に死を招いた。今も「死を懇願され、直面して悩む」という。
悩んだ結果を、死亡診断書に何という病名で記載するのだろうか?
17年の月日は、疼痛緩和と医療技術の進歩に隔世の感がある。紹介し次回に考えたい。
【参考記事:8月26日 朝日新聞 朝刊 『父を安楽死させた・・・医師告白』】