1996-1999
第51話 「修行」と「修業」
文章を書くとき、私は必ず「修行」とかいているのだが、漢字になったものをみると「修業」にあらためられていることが一度や二度ではない。 編集者が用語の慣例に従って親切に訂正してくれるのだろうが、実は有難迷惑なことである。 […]
第52話 三福田の教え
農夫が春、田圃に種子を蒔き、秋に収穫を得るように、徳を積んでその果報を受けることが人間にとって真の幸福である。 それにはどういう田圃に種子蒔きをすればよいか。 それが三福田の教えである。 第一は敬田(きょうでん)とい […]
第54話 正師を求めること
修行にとって最も大事なことは、正しい良き指導者を得る事である。 道元禅師は「学道用心集」に「正師を求むべき事」という一章を起こして、悪い指導者に惑わされると取り返しがつかなくなる。正師を得なければ学ばないほうが良いなど […]
第55話 神仏と共に在る心を育てる
「三つ児の魂百まで」といい、幼稚園から小学校時代にかけて、人間の魂の方向、性格ができあがるといわれる。だからこの時期に、神や仏という絶対者と共に在るという確信を持たせることが大切なのだが、無宗教教育に育てられた日本人に […]
第56話 正しい宗教に生きること
前回、絶対随順について話をしたが、オウムの信者はまさに絶対随順の信仰生活をしている。ここで大切なことは、その宗教が本物か否か、見分ける見識を持つことであるが、これがたいへん難しい。 戦前においては、旧制高等学校から大 […]
第57話 恩讎の彼方に
九州・耶馬渓谷の鎖渡しの難所に、人馬の行き悩む様子を見た旅の僧禅海が、洞門の開削を発願し、村人の嘲笑をよそに、やわらかいとはいえ集魂岩に対し、27年もの間ノミをふるい、ついにその目的を達成した話は小説『恩讎の彼方に』で […]
第59話 宗教なき教育は賢い鬼をつくる
明治五年の学制発布以来、宗教は教育のラチ外に押しのけられ、爾来日本国民は公教育の場では無宗教教育に育てられた。 しかし教育の基盤に、宗教がいかに大切なものであるか、それはいみじくも聖徳太子が十七条憲法の第二条に明確に述 […]
第60話 生死事大
弘法大師の言葉に “生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、 死に死に死に死に死んで終わりに冥し” という実に印象的な一句がある。 人はみな生まれ変わり死に変わりを繰り返しているが、生と死の本質的な意味に目覚めようと […]
第61話 落ち葉焚き
いくら掃いても掃ききれない落ち葉の季節となった。 こんな時思いだすのが良寛さまのことである。 良寛さまが托鉢に出て不在の時、良寛さまを召しかかえようとした殿様の家来が来て、五合庵の周囲の草を刈り、良寛さまに喜んでもら […]
第62話 慈悲なきに似たれども
平安中期の天台宗の高僧源信は比叡山の彗心院に住んでいたので彗心僧都といわれた。 或る日、寺の境内に一頭の鹿が迷い込んできた。 それを見た彗心僧都は、「あそこに鹿が入ってきた。早く追い出せ!」と、言葉荒々しく弟子たちを […]
第63話 木鶏に似たり
中国の古典の「荘子」に「木鶏に似たり」という有名な言葉がある。 木で造った鶏のように周囲の動きに心を動かすことなく、何事にも無心で対応することの大切なことを教える言葉である。 昔、王様のために闘鶏を調教する人がいた。 […]
第65話 涅槃雪(ねはんゆき)
寒い東北では2月13、4日になると、きまったようにうす汚れた雪の上に美しい真っ白な雪が舞い降りてくる。 これを「涅槃雪というのだ」と、私に教えてくれたのは、いまは亡き隣りの老僧だが、その老僧が、「ああ、涅槃雪だ」と、さ […]
第66話 泥中の蓮華
西郷隆盛の座禅の師である無三(むさん)和尚は、藩主島津侯の菩提所福昌寺の住職に迎えられた。 晋山式(しんさんしき)といって住職就任のとき、無三和尚は型のごとく須弥担上(しゅみだんじょう)にのぼって香を焚き、いよいよ雲水 […]
第68話 平常心これ道
西郷隆盛が郷里鹿児島にいたころの話。幕臣の中でも腕に覚えのある3人が会談の結果、「今後討幕の首領となるのは西郷であろう。いまの内に倒しておかぬと幕府の一大事になろう」ということになった。 そこでその三人、当時西郷を知っ […]
第69話 落葉樹と常緑樹
古代エジプト人は、永遠の生命を希求し、不滅の棲家としてピラミッドを造った。その努力の並々ならぬこと、スケールの大きいことはおどろくばかりである。しかし、形のある限り、やがてはこわれゆくものである。 この点、対照的でま […]
第70話 姿勢を正しく
人間の生命は吐く息吸う息、呼吸にあるので正しく生きるには呼吸を正さなくてはならぬ。 正しい呼吸には正しい姿勢が必要で、正しい姿勢の基本は腰にある。 腰は人の体の中心で、びっくりした途端にまず抜かすのも腰である。だから何 […]
第71話 己心の弥陀
極楽浄土は西方十万億土のはるか彼方に、と教える浄土門のなかにも、その極楽浄土を自らの心の中に引張り込んだ「己心の弥陀」「己心の浄土」が説かれている。 「己心の弥陀」を判り易く説示した話がある。 四万年ほど前、仙台に損翁 […]
第72話 梅一輪
昔、中国の詩人が春をたずねて、一日中、野山を散策したが、つい春を見つけることができず、疲れた足をひきずってわが家に帰り、ふと庭先の梅の梢に花のふくらみを発見し、「春はこんな身近にあったのか」と、感激の詩を賦している。 […]
第73話 敬虔の念
今日の日本人のものの考え方はあまりにも現実的・即物的で、奥床しい人格の中心をなす最も尊い敬虔の念を失っているが、敬うべきものを敬わない敬虔の気持ちのない人間ぐらいつまらぬものはない。 なぜなら人格の尊厳を自覚しないから […]
第74話 二河白道(にがびゃくどう)
浄土門に二河白道のたとえがある。 浄土往生を願う者がに進むと水火の二河に出会う。火の河は南、水の河は北、ともに深くて底なしである。この二河の中間に細い白道があって、水火こもごも押し寄せている。また群賊悪獣がうしろから […]